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 世界を旅した博物学者 ケンペル 

 
ケンペル Englebert Kaempfer(1651-1716)

 出島にシ−ボルトによって建立された碑には、ケンペル、ツュンベリ−よ、みてください。あなたがたの植物がここに毎年緑きそい、咲きいでて、植えた主を忍んで愛らしい花のかづらをなしつつあるのを。と書かれている。この碑文からシーボルトが日本の動植物や文化風俗を世界に紹介したケンペルとツュンベリーを如何に尊敬していたかがわかる。

 ケンペルEnglebert Kaempferは1651年ドイツのレムゴ−で牧師の次男として生まれた。ヨーロッパは30年戦争後で荒んだ状況にあった。14歳の時牧師であった叔父が魔女裁判で死刑となっている。いくつかの大学を転々としケ−ニヒスベルグ大学医学部で学んだが、この悲劇のために職は見つからず、スウェ−デンに渡った。ウプサラ大学でルートベック一世教授に植物学を学んだ。この教授の子息が近代植物学の祖リンネの師である。 リンネはケンペルの『廻国奇観』Amoenitatum Exoticarumの挿絵や記述に従い、日本の植物に命名している。イチョウには銀杏 Ginkyo に由来し y を g と読み違えたGinkgo biloba Linnaeusの学名を、ツバキにはCammellia japonica L.、ザクロにはPunica granatum L.の学名を与えている。後世の学者がケンペルの名を献じた日本の植物に、ヤマツツジRhododendron kaempferi Planch、マツグミTaxillus kaempferi (DC.)Danserがある。

 1683年、ケンペルはスウェ−デン国王のペルシアへの使節団に秘書官として参加し、ストックホルムを出発、ロシアで若きピョ−トル皇帝に会った。カスピ海を経てペルシアに到着。カスピ海の水はいやな苦みがあり、油井から注ぎ込んだナフサによると考えた。オランダ東インド会社の外科医となり1688年までペルシアのバンダ−ル・アッバスに滞在した。ペルセポリスを探検し古代ペルシア文字が楔型文字であることを見出した。

 1689年 ケンペルはバタビアへ向けて出航。日本に3度赴任したバタヴィヤ総督カンプホイスの知遇を得、日本について多くの情報を得た。 1690年長崎の出島に赴任した。若き有能な通詞今村英生に多くの日本の書物を翻訳させた。江戸に参府して将軍綱吉に謁見し、歌を披露した。ケンペルは平和な日本に驚き、その著書の 『日本誌』Historia Imperii Japoniciで日本の鎖国を礼賛し、綱吉を名君として評価している。1692年に出島を出発、翌年オランダに到着、ライデン大学に入学して学位を得た。 1712年に 『廻国奇観』を出版した。『廻国奇観』には日本の文化風俗が挿絵を多用して説明され、300以上の植物や鍼灸が紹介されている。1716年に65歳で逝去した。

▲廻国奇観
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)
▲イチョウGinkgo biloba Linnaeus
〜「廻国奇観」所収〜
▲ツバキCammellia japonica L.
〜「廻国奇観所収」〜
▲日本誌
(長崎大学附属図書館所蔵)
▲ケンペル、江戸参府の図
〜「日本誌」所収〜
▲ケンペル、将軍綱吉に拝謁し、歌を披露した図
〜「日本誌」所収〜

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