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 日本植物学界の父 ツュンベリー 

 
ツュンベリーCarl Peter Thunberg(1743-1828)
▲ツュンベリー肖像
肖像を取り巻く植物はツュンベリーが喜望峰で採取した標本Tunbergia capensisである。Resa uti Europa, Africa, Asia ツュンベリー著。スウェーデン語版。長崎大学附属図書館経済学部分館所蔵

 

 ツュンベリーCarl Peter Thunberg(ツンベルク、ツェンベリー)は1743年スウェーデンに生まれ、ウプサラ大学でリンネ Carl von Linne教授に医学と博物学を学んだ。近代植物学の祖リンネは1735年『自然の体系』を出版し、新しい分類体系を提示した。植物を雄しべの数で植物を24綱に分け、雌しべの花柱の数で目に細分した(1753)。リンネは日本の動植物を分類させるべくツュンベリーを派遣した。

 ツュンベリーはまず初めに東インド会社の医師となり喜望峰でオランダ語を身につけることにした。北が山脈で遮られた喜望峰は他のアフリカから独立した独特の豊富な生物界を形成していた。3年をかけてこの未知の喜望峰界をくまなく探検し、数多くの動植物の標本を採取、後年Flora capensis『喜望峰植物誌』を完成させて不滅の業績を挙げた. ツュンベリーが喜望峰で採取した標本Tunbergia capensisに従い、彼の名を献じたTunbergia 属がリンネにより創設された。

 1775年、ツュンベリーはオランダ東インド会社の外科医として長崎に来た。出島に隔離されると植物は採取できない。彼は出島に運び込まれる牛豚の飼料に目をつけ植物や昆虫を採取した。1776年の江戸参府の道中は植物を採取する絶好の機会であった。箱根路では度々駕籠を降りて採取にいそしんだ。江戸では桂川甫周や中川淳庵と会い、訓蒙図彙の様な本草学の書を譲り受けた。長崎への帰途、大坂の植木屋で多くの植物を買いこむことができた。ツュンベリーが日本の植物に命名したものは数多いが、日本名をそのまま種名や属名に用いたものにカキDiospyros kaki Thunb.、サザンカCammellia sasanqua Thunb.、ナンテンNandina domestica Thunb.がある。

 シーボルトは伊藤圭介にツュンベリ−の Flora Japonica を与えた。これを元に圭介は『泰西本草名疏』を著しリンネの分類法を日本に紹介した。シーボルトが尊敬するツュンベリーに種名を献じた植物や動物を挙げると、タブノキ Machilus thunbergii Sieb. et Zucc.、ユキヤナギSpiraea thunbergii Sieb.、ナガサキアゲハPapillo memnon thunbergii Sieb.がある。

 梅毒に有効な昇汞(塩化第二水銀)を使用するスウエーテン水の処方を吉雄耕牛ら通詞たちに教えた。この薬の劇的な治療効果により、長崎で多くの患者がその治療を受けるようになった。 商館長は長期滞在を要請したが、滞在を延長しても採取は進まないと見切りをつけて断り、1776年バタヴィアに戻った。1779年スウェーデンに帰国し、その後ウプサラ大学の植物学教授を経て学長に昇進した。1828年85歳で逝去した。

▲Flora Japonica
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)
▲サザンカ Cammellia sasanqua Thunb.

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