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 牛痘を日本にもたらしたオットー・モーニッケ

 
オットー モーニッケ

 Otto Gottlieb Johann Mohnike は1814年7月27日ドイツのストラールズントで高位の聖職者Gottlieb Christian Friedrich MohnikeとKaroline Mohnikeの一人息子として生まれた。姉妹は6人いた。グライフスバルト大学、ボン大学とブレスロー大学で医学を学び、博士論文 De instinctu sexuali eiusque natura atque causis はベルリンで発表されている。

▲聴胸器
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)
日本最古の聴診器で、モーニッケがもたらし吉雄圭斎に与えたもの

 1844年から1869年までオランダ東インド陸軍軍医としてジャワに勤務した。1848年日本に出島商館医・自然科学調査官として来日した。聴診器をもたらし、気象観測を出島で行った。来日に際して持参した牛痘は失活し、牛痘の植え継ぎは不成功であった。1849年バタビアのボッシュ医事局長が自分の息子に牛痘を植え、生じた痘痂を長崎に送った。痘痂の牛痘ウイルスは失活せず、モーニッケが3児に接種したところ楢林宗建の三男建三郎にのみ美痘が生じた。この痘漿から3児に伝種した。この後数多くの長崎の子供達に伝種された。

 種痘の普及した1849年は漢方医の巻き返しにより蘭医学禁止令が出された年でもある。種痘の普及は牛の角が生える等といういわれなき誹謗との戦いでもあった。このような時代にわずか半年の間にモーニッケ痘苗が腕から腕へと日本全国に広まったのは驚くべき事である。蘭方医達とその当時の日本人のレベルが高かったから牛痘という新法を受け入れたのではなかろうか。モーニッケはその著 Die Japaner の中で日本人は理解力、判断力に優れ、外来文化の取り込みに卓越した能力を持つこと、他の人に対して自己犠牲ができ、格別に清潔を愛すると好意的な評価をしている。モーニッケは彼を招いたレフィソーンの後任の新商館長Roseとは折り合いが悪く、1851年秋ジャワに戻った。その後一等陸軍軍医を統括する立場まで登りつめ1869年退官した。2人の子供と共にボンに帰り、開業医となった。1887年1月26日脳卒中で永眠した。

 モーニッケには“Die Japaner Affe und Urmensch、Blicke auf das Pflanzen und Thierlebenin den Nieder laendische Malaienlaendern 等の優れた博物学の著作がある。昆虫にはモーニッケの名付けたものがいくつもあり、魚類でも新種を見つけている。彼が日本で見出した新種のタツノオトシゴには魚類の大家P.BleekerによりHippocampus Mohnikei Blkr.と名付けられた。進化論で有名なA.R.Wallaceはその著『マレー諸島』The malay archipelago の中でモルッカ諸島のアンボイナにいたモーニッケを訪ねた時の事を記述していて、彼の人柄の良さと甲虫や日本のオサムシ等の彼のコレクションの素晴らしさにふれている。牛痘種痘の父モーニッケはマレー諸島や日本の博物学で傑出した業績を残した素晴らしい医療国際人であった。しかしドイツでは無名であり、有名なブロックハウス百科辞典にモーニッケの名前を見出すことができない。

 1999年秋、長崎大学医学部は種痘伝来150周年の講演会や展覧会を長崎、佐賀、大村で開催した後、2000年3月18日よりビュルツブルグ大学医学部医史学教室と共同してビュルツブルグ市シーボルト博物館でモーニッケ顕彰の展覧会を3ヶ月間開催した。ボンにあるモーニッケの墓所は荒れていたが、ボン大学日本文化研究所所長ヨーゼフ クライナー教授に協力して墓所の整備をした。7月3日よりモーニッケ顕彰の2つ目の展覧会がボン大学日本文化研究所内で開催された。日本だけでなく母国ドイツでモーニッケの業績が広く知られる事を期待している。


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