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  長崎のオランダ医学  


本木良意 モトキ リョウイ(1628-1697)

 本木庄太夫(榮久、剃髪して良意と号する)は通詞の名門本木家の初代である。J.レメリン Johannes Remmelinの解剖図譜に依拠して解剖図と訳説を著した。1772年周防の鈴木宗云が見出し、『和蘭全躯内外分合図』と題して出版した。解体新書出版の2年前であった。山脇東洋の蔵志や杉田玄白の『解体新書』よりもはるかに早く17世紀において良意による日本最初の解剖図が筆写されて流布していたと思われる。シーボルトもこの書を持ち帰った。庄太夫は商館医ケンペルやライネに学び大通詞、通詞目付まで昇進した。


楢林鎮山ナラバヤシ チンザン(1648-1711)

 楢林鎮山は名を時敏(トキトシ)といい、新右衛門、後新五兵衛と称し、号が鎮山である。大通詞であり、楢林家の初代である。ボッシュDaniel Bosch やホフマンWillem Hoffman 等の出島蘭館医師達に学んだ。鎮山はフランスの有名なパレAmbroise Paréの外科書をCarolus Battusが蘭訳したDe Chirurgie,en de Opera vanallede Werken van Mr. Ambroise Paréにより紅夷外科宗伝を著した。長崎大学医学部にあるこの書はその挿し絵が美しくパレおよびスクルテタスの外科書から引用されている(関連:紅夷外科宗伝の原典調査 スクルテタス(Scultetus)外科書との対比)。『紅夷外科宗伝』は楢林流外科の教科書として用いられた。

▲紅夷外科宗伝
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)
紅夷外科宗伝 巻一 全文へ
紅夷外科宗伝 巻二 全文へ
 
吉雄耕牛ヨシオ コウギュウ(1724-1800)

 吉雄耕牛は名を永章といい、幸左衛門、後幸作と称し、号が耕牛である。吉雄家の第五代で外科医バウェルG.R.Bauer やツュンベリーC.P.Thunbergに学んだ。若くして大通詞となった耕牛は蘭書に広く目を通し医学に通暁していたので、多くの門弟が集まった。特に外科に優れ、吉雄流紅毛外科として広まった。江戸番通詞は11度も勤め、江戸の蘭学者との交流も深かった。前野良沢は耕牛に学び研鑽を積んだ。前野良沢や杉田玄白等による『解体新書』に耕牛は序文を寄せている。外科に吉原元棟の整骨法も取り入れ、門人の二宮彦可は吉原氏に学び整骨術を唱道した。子息の永久は医術に権之助は蘭語に優れていた。西洋の調度であふれる吉雄邸ではオランダ正月の賀宴が催され、長崎を訪れる人々の名所でもあった。

▲吉雄耕牛
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)


馬場貞由ババ テイユウ(1787-1822)

 馬場佐十郎は通称で、名は貞由、号は穀里である。馬場為八郎の養子となって阿蘭陀通詞となった。志筑忠雄、ヅーフHendrik Doeff とブロンホフJan Cock Blomhoff に学んでオランダ語、フランス語、英語に通じ、後年大黒屋光太夫やゴロウニンよりロシア語を学んだ語学の天才である。1808年幕府天文方に召し出され、ショメルN. Chomel の百科事典の翻訳に関与、『厚生新編』編纂に大いに寄与した。ヅーフよりジェンナーの牛痘発明のニュースを得ていた佐十郎は中川五郎治がもたらしたロシア語の牛痘法の本を訳した(『魯西亜牛痘全書』)。1820年に脱稿した『遁火秘訣』は日本最初の牛痘法の書である。大槻玄沢、宇田川玄真、杉田立卿、青地林宗は佐十郎に師事してオランダ語を身につけた。36才で逝去したのが惜しまれる。


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