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 松本良順と長与専斎 

 
松本良順

 松本良順はポンペとともに長崎大学医学部の創設者である。良順は佐倉順天堂の始祖、蘭医佐藤泰然の次男として生まれ、蘭医学を学んだ。泰然と親しかった幕府寄合医師松本良甫は良順を養継として迎えた。第二次海軍伝習にオランダは軍医を派遣することを聞いた良順は、第一次海軍伝習の伝習所総督を勤めた後第二次海軍伝習生を集めていた永井尚志を説得し、伝習生附御用医として長崎にきた。ポンペの医学校建設の志に共鳴した良順はまず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。そのころ蘭医学は禁じられていたので、他藩からの医師は良順の弟子ということにしてポンペの講義を受けることができるように取り計らった。1857年11月12日ポンペは西役所の一室で松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なった。次第に多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から大村町の元高島秋帆宅に移った時、良順は病院を付置した医学校建設を決意した。ときの長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で医学校建設に助力を惜しまなかった。1859年井伊大老から突然オランダ人海軍伝習教官の帰国命令が出されたとき、良順は岡部駿河守と共に医学伝習の存続に骨を折り、ポンペは残留した。1860年ロシア兵の長崎寄港の際、遊女の梅毒検査を実施した。1861年9月養生所が完成、良順はその頭取となった。1862年ポンペは63名に卒業証書を渡し帰国した。1863年良順は江戸に帰り、西洋医学所頭取となった。良順は医学校で兵書を読む学生が多いのに憤慨して医学書のみを読むべしと兵書と文法書講読の禁令を出したところ、煮えたぎる擁夷熱に冒された医学生のごうごうたる非難を受けたという。前頭取の緒方洪庵の学風は蘭学を広い分野に応用することを認め、大村益次郎、福沢諭吉のような多彩な人々が輩出したが、良順そして順天堂の学風は医業専一であって、佐藤尚中、関寛斎のような医人が育った。

 1866年幕府軍は長州征伐で敗退した。この時良順は大阪城で病む将軍家茂公を治療しその臨終を見取った。幕府の海陸軍軍医制を編成し、総取締になり、戊辰戦争では会津城内に野戦病院を開設した。明治4年山県有朋の請いにより陸軍軍医部を編成し、1871年初代軍医総監となった。牛乳を飲むことと海水浴をすることを日本に定着させた。1911年に76歳で没した。

▲松本良順
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)
▲ポンペ、良順と学生の集合写真
前列右にポンペ、左に松本良順が座り、後列に学生が発っている。


 
長与専斎
 
▲長与専斎書 詠牛痘
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)

牛痘種という神方が全国に広がり能く百歳の憂いを除いたのは偉大なことであると詠じている。松香は専斎の号
▲長与専斎

 長与専斎は人痘の腕種法を大村で広めた長与俊達の孫であり、緒方洪庵に学んだ後、洪庵の勧めで長崎でポンペ、ボードインに学んだ。1868年精得館頭取となってマンスフェルトとともに教養部にあたる予科を設けるなど学制を改革した。明治元年精得館は長崎医学校と名前を変えた。1871年長崎医学校校長であった専斎は伊藤博文に頼み込み岩倉大使西欧使節団の一員となり欧米医事制度調査に出向いた。牛痘苗は幕末明治にかけてオランダに依存していた。1873年帰国し専斎は文部省医務局長兼東京医学校長となった。同年オランダのハーグで手に入れた器具により専斎は牛に牛痘を戻し量産する再帰牛痘苗作成に成功した。牛痘種継所の設立により痘苗輸入の必要は無くなり種痘は日本にしっかりと定着した。度重なる天然痘の流行にも迅速に対応できるようになった。内務省衛生局長となった専斎は、医師国家試験、薬局方、種痘法など衛生行政にからむ医制のほとんどを立案施行した。“衛生"という現在よく使う言葉も専斎の発案である。維新後年々10万人の人口増加があったのも種痘と衛生の普及によるところが大きい。


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