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長崎は1850年代後半から英米など外国商社が進出してくるに伴い、長崎にとって上海は最も重要な貿易相手となった。江戸在住の蘭方医であった三宅艮齋がホプソンの『西医略論』『婦嬰新説』『内科新説』を翻刻するが、三宅艮齋は長崎ルートを通して上海から「書籍薬品」を購入したと見られ、漢訳洋書がもたらした先進的「西洋医学」を物語っているのである。
医学分館所蔵漢訳洋書概要
1850年代に入ると 、上海は東アジアの貿易や交通ネットワークの中心となる。ロンドン教会の宣教師たちは、西洋情報を伝達するために、「墨海書館」の印刷所と「仁済医館」の診療所を設置した。「仁済医館」の管理を任せられたホプソン(合信)は、道光十年(1839年)中国に渡来し、医業をすること二十年。中国人陳修堂、管茂材の手助けを得て、『全体新論』(1855年,墨海書館再版),『西医略論』(1857年,仁済医館出版),『婦嬰新説』『内科新説』(1858年,仁済医館)を著した。長崎は1850年代後半から英米など外国商社が進出してくるに伴い、長崎にとって上海は最も重要な貿易相手となった。江戸在住の蘭方医であった三宅艮齋がホプソンの『西医略論』『婦嬰新説』『内科新説』を翻刻するが、三宅艮齋は長崎ルートを通して上海から「書籍薬品」を購入したと見られ、漢訳洋書がもたらした先進的「西洋医学」を物語っているのである。