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中央図書館所蔵官立長崎師範学校の蔵書概要

1872年(明治5) に学制が発布され、近代的教育制度がスタートした。文部省は国民皆学をうたい、小学校教育を普及させることを企図した。小学校教員養成のための官立師範学校が、東京をかわきりに大阪・宮城・愛知・広島・長崎・新潟に設置された。1874年(明治7)に設立された官立長崎師範学校は、翌年時点ですでに1万冊余りを所蔵し、全国の官立師範学校のなかでもっとも多い蔵書数をほこった。1878年(明治11)には48,983冊(教科書27,881冊、小学校用書10,499冊、参考書9,907冊、洋書696冊)を所蔵していたが、同年に廃校となったためにそれらは長崎県の師範学校に移管された。その後も長崎県崎陽師範学校、長崎県師範学校などに引き継がれながら蔵書数を増やしたが、移転をくり返すうちに官立時代の蔵書の大部分は失われた。長崎大学附属図書館に現蔵されている師範学校関連の和装本・綫装本はおよそ1500部7000冊におよぶが、官立時代のものはおよそ300部3150冊で冊数にして半分近くを占める。漢籍や江戸期の国書、明治初期の翻訳物が多い。洋書も64冊が現存する。地方の官立師範学校のなかでは唯一、蔵書目録(『旧長崎師範学校地所建物目録』)も残っている。教員養成の模索期であった明治初期に書籍が果たした役割を検証するには貴重な資料群である。(参考文献:橋本美保『明治初期におけるアメリカ教育情報受容の研究』風間書房1998年、平田宗史「官立長崎師範学校」『福岡教育大学紀要』32号1982年)

地球説略

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漢籍系教科書。中国に進出したアメリカ人牧師理哲(リチャード・クォーターマン・ウェイWay, Richard Quarterman :1819-95)の著作。1856年に寧波華花書房から出版されたものに蕃書調所教授の箕作阮甫が訓点を施し、1860年(万延1)に刊行された。巻末に明治辛巳(1871年)の「老皀館發兌書目」があることから、明治4年以降に刊行されたことがわかる。内容は、上巻で地球円体説・輪転説、地球・大洲・大洋の図説について概観した後に亜細亜の地誌、中巻で欧羅巴の地誌、下巻で亜非利加・澳大利亜・亜美理駕の各大洲の地誌を略述している。(参考文献:石山洋「日本の地理教科書の変遷」『地理』20-5、1975年p17)

律例精義

01-40

1748年に刊行されたモンテスキウ(Montesquieu, Charles de Secondat, baron de1689-1755)のDe l'Esprit des Loix(『法の精神』)を、鈴木唯一がフランス語から翻訳し1875年(明治8)7月に刊行されたもの。翌年に何礼之がイギリスのトマス・ニュージェントによる1750年版の英訳書2巻から翻訳した『萬法精理』を刊行するのに先んじた。鈴木唯一は公議所刑法官判事試補として、進歩的な議案を提出した人として知られる。内容は、「法の総論」、「直に政治の性質に淵源する法」、「三政治の大綱」の三篇からなっている。本書は、明治初期の近代法思想に多大な影響を与えた。(参考文献:馬場慎・藤原直彦「モンテスキュー律例精義」『日本大学生産工学部報告』19-1、1986年)

律例精義大意

01-30    31-41

フランスのダランベルト(Alembert, Jean Lerond d' )が書いたものを鈴木唯一が翻訳し、1875年(明治8)12月に出版された。鈴木はすでに同年7月に、モンテスキューのDe l'Esprit des Loix(『法の精神』)を翻訳したものを『律例精義』として刊行していた。『律例精義大意』自序によれば、原書が大部であるためにすべてを翻訳して刊行することは時間を要するので、「世ノ政法ヲ談スルモノニ告ケン」として本書を出版したという。

魯國新史

1冊01-36    2冊01-30    3冊01-28

原書は、例言によれば、伊(イ)禄(ロワ)瓦斯(イスキイ)(Ilovaiskii, Dimitrii Ivanovich:1832-1920)によって1872年にモスクワで出版された。訳者小野寺魯一は、1870年(明治3)から1874年にかけてロシアに留学し、滞在中に原書を求めたようである。内容は、歴代のロシア皇帝の事跡をまとめたもので、巻一から巻二にかけてペートル(ピョートル)一世について詳述し、巻三にエカテリーナ(エカチュリーナ)一世以降について略述している。

民法論綱

1冊01-30    1冊31-53    2冊01-30    2冊31-49    3冊01-30    3冊31-50

原書は、緒言によれば、ゼルミー・ベンサム(Bentham, Jeremy:1748-1832)のThe Principles of Civil Code。ベンサムは、功利主義の提唱者として有名なイギリスの経済学者。訳者何礼之(が のりゆき)は1840年(天保11)唐通事の子として長崎に生まれ、幕末には長崎の英語稽古所学頭をつとめ英学塾を開設するなど、英語教育に貢献した。岩倉遣欧使節に通訳として随行した際、モンテスキューの『法の精神』を翻訳し、これはのちに『萬法精理』として刊行された。『民法論綱』は、その後『立法論綱』(明治11)『刑法論綱』(明治12)『憲法論綱』(明治15)『利学正宗』(明治16-17)などと続いて刊行されることになるベンサム著作の翻訳のさきがけとなった。6冊本で内容は、上篇「民法の綱領」、中篇「資産ノ分配」、下篇「私人ノ間ニ存スル権利、義務」となるはずだが、中篇以降の3冊は官立長崎師範学校では所蔵していなかった。(参考文献:大久保利謙「幕末英学史上における何礼之」『鹿児島県立短期大学研究年報』6、1978年)

解剖學動脈編

1冊01-30    1冊31-42    2冊01-30    2冊31-50

原書は、イギリスのウヰルソン(Wilson, Sir Erasmus:1809-1884)によって書かれたもの。明治初期にはそれまでの蘭書の輸入が激減し、イギリスやアメリカから解剖書が入ってきて翻訳書が逐次出版されるようになる。しかし、1870年(明治3)にドイツ医学を模範とすることが決定すると、英語圏の医学からドイツ医学へと移行した。明治15年以降になるとドイツ医学書が移入され、それらを参考にした日本人による解剖書が登場する。本書は、明治初期に流入した英語原本の翻訳書のひとつ。(参考文献:島田和幸「解剖学書誌から見た日本における近代解剖学の始め」『解剖学雑誌』82-1、2007年、pp.9-10)