シーボルトの医学


Philipp Franz B.von Siebold(1796-1866、在日期間1823-1829、1859-1862)

▲シーボルト肖像

 フィリップ F. B. フォン シーボルトは1796年ドイツのビュルツブルグに生まれた。彼の祖父、父と叔父がビュルツブルグ大学の教授として活躍し高名である。3歳のとき父を失ったシーボルトはビュルツブルグ大学で医学や博物学を学んだ。父の友人の同大学解剖学教授デリンガーのもとに寄寓し、その邸宅に出入りする教授達に薫陶を受けた。シーボルトは多くの弟子達にリサーチのテーマを与えオランダ語で論文として提出させ、それらを総合して『日本』、『日本植物誌(1835)』、『日本動物誌(1833-1850)』をまとめている。ケンペル、ツンベルグを凌駕する日本研究を達成する目的のためにシーボルトはドイツの教授の伝統的研究手法を踏襲したといえよう。

▲NIPPON

▲日本動物誌 Fauna Japonica

 1814年英国に占領されていた旧蘭領東インドがオランダに返還され、蘭領東インド総督ファン デア カペレンは新たに植民地と貿易を見直そうとしていた。1823年27歳のシーボルトは総督から託された日蘭貿易のための広範な日本研究の使命を帯びて出島に赴任した。商館長デ ステュルレルは医学のみならず諸科学に精通し教授できる人としてシーボルトを長崎奉行に紹介した。ときの奉行の好意により、シーボルトは出島で湊長安や美馬順三ら医師たちを教授し、出島を出て患者を診察し薬草を採取することが許された。出島の近くにあった通詞の吉雄宅と楢林宅を訪問し講義診療した。内科の多くの疾病を治療しただけでなく、腹水穿刺、陰嚢水腫、兎唇、乳癌などの手術をおこなった。さらに産科鉗子を用いて分娩を行い、ベラドンナで瞳孔を開大して眼科手術を行った。このようなシーボルトの治療と手術が名声を博するにつれて門下生は増えたので、シーボルトの鳴滝の別荘に彼らを住わせるようになった。美馬順三や高良斎が指導し、シーボルトが講義に訪れる鳴滝塾には日本全国から150名を超える俊秀が集まった。

▲幕末頃の鳴滝塾

 江戸参府の折りには、幕府の医官達に眼の解剖並びに眼科手術の講義を行い、土生玄碩に瞳孔を開いてみせ、眼科器具や眼科書を見せた。また江戸で兎唇の手術や牛痘種痘の方法を実演した。

 通詞目付茂 傳之進をはじめ多くの通詞たちの努力により門弟たちの語学力は向上し、高 良斎や高野長英らはオランダの医学の教科書を次々に和訳するようになった。

 高 良斎はシーボルトの薬物学講義をまとめて『薬品応手録』を刊行した。シーボルトはヨーロッパの薬草を日本に紹介し、その一部は日本においても生息している事を教え、日本にない薬物が大量輸入されるようになった。一方日本の薬草をヨーロッパの医学界に紹介し導入した。

シーボルトによってオランダ医学はただ書物から学ぶものではなく、鳴滝塾で診断治療の実際を目の当たりにして学ぶものになり、西洋医学の基本的原理が教えられ、その診断治療が日本の伝統的医学をはるかに上回るものであることが認識されるようになった。シーボルトの弟子達が蘭書を翻訳して自らの実力を高め日本の医学界を次第にリードするようになった。

しかし1828年任期が満ちたシーボルトが帰国しようとした時、暴風雨が長崎を襲い、シーボルトの積み荷を積んだコルネリウス ハウトマン号は難破座礁した。積み荷の中から日本地図など国禁の品々が発見され、世に有名なシーボルト事件が起こった。弟子や友人が刑に処せられ、シーボルトは国外追放となり1829年12月末、長崎を離れた。その後モーニッケが来崎するまで19年間も出島の商館医は不在となり、日本はその後急激に進歩した西洋科学の受入の窓口を長期間失うに至った。もしもシーボルト事件が起こらなかったならば、モーニッケ、ファン デン ブルックやポンペのような医師が出島に滞在し日本の科学は遅れをとらずにすんだのではなかろうか。