西洋医学教育の父ポンペ


近代西洋医学教育の父ポンペ

 J. L. C. Pompe van Meerdervoort 1829-1908、在日期間1857-1862

 1857年、日本の軍医派遣要請に応じて第二次海軍伝習指揮官カッテンディーケに選ばれた28才の軍医ポンペは医学校を開設するべく日本にやってきた。1857年11月12日西役所の一室で松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なった。この日を長崎大学医学部の創立記念日としている。オランダ政府派遣の軍医が来ることを知った幕府寄合医師養継松本良順は永井尚志を説得し、海軍伝習生御用医として長崎にきた。良順は医学校開設というポンペの考えに共鳴してまず医学伝習を海軍伝習から独立させるよう努力した。そのころ蘭医学は禁じられていたので他藩からの医師を良順の弟子としてようやくポンペの講義を受けるさせることができた。多くの医師が集まり手狭となった西役所の一室から大村町の元高島秋帆宅に移った時、良順は医学校建設を決意した。ときの長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で医学校建設に助力を惜しまなかった。

 ポンペは医学全般を一人で教える文字通りone man schoolの校長として長崎で5年間全身全霊をそそぎ込んで苦闘した。毎日の講義もただ教科書のひき写しでは科学の基礎知識の無い学生に理解できるはずもなく、わかりやすくして言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えねばならなかった。そのカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似し、全く手抜きする事なく基礎から一歩一歩と階段を登るように教えられた。松本良順とその弟子司馬凌海のオランダ語の深い素養もポンペの講義理解伝達に大きな功績があった。解剖学はキュンストリーキという精巧な人体解剖紙模型を用いて行なわれたが、ポンペはほどなく囚人の人体解剖実習を長崎奉行に願い出た。牢内の囚人達が反対の騒動を起こした時、良順は解剖実習に献体する事の意義を説き、献体した囚人には処刑後僧による読経を許し手厚く供養すると約束して騒ぎをおさめた。1859年9月西坂の丘でポンペは市民の反感のなか身の危険を省みず日本初の人体解剖実習をおこなった。

▲ポンペ ファン メールデルフォールト
(長崎大学附属図書館所蔵 日本古写真アルバム
ボードイン・コレクションより)

養生所の開設

 14,530人もの患者を5年間に治療し、外国人によるコレラや梅毒の上陸を阻止するための努力により長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになった。ポンペの熱望していた西洋式の病院の建設もこのようなポンペの誠実さが浸みわたって初めて実現に走りだしたのである。1861年9月20日(文久元年8月16日)養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成した。養生所は医学校(医学所)に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身である。ポンペは多くの日本人医学生にたいして養生所で系統的な講義を行い、患者のベッドサイドで医のアートを教えた。その教え子達によって本邦に西洋医学が定着したので、近代西洋医学教育の父と称されている。

 ポンペは貧乏人は無料で診察し、侍町人、日本人西洋人の区別はいっさいしなかった。封建社会に育った門人達に医師にとってはなんら階級の差別などないこと、貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけだということを養生所で身をもって実践し教えていた。長崎大学医学部の校是となっているポンペの言葉は「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」というもので、医の真髄を教えたポンペの言動は門弟達の心に深く刻み込まれた。ポンペは、卒業証書を学生に渡したあと、後任ボードインの着任を待って1862年11月に帰国した。

▲ポンペ著『日本における五年間』より口絵
(長崎大学附属図書館経済学部分館所蔵)

▲養生所と分析究理所(明治初期)