オランダ軍艦パレンバン号長崎入港の図


阿片戦争における中国(清)の敗北は日本人に大きな衝撃を与えただけでなく、オランダの日本顧問であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトPhilipp Franz von Siebold准男爵に日本将来を危惧させ、海国へ導こうと決意させるきっかけとなった。
弘化元年7月2日(1844年8月14日)オランダ軍艦パレンバンPalembang号が長崎に入港した。コープスCoops艦長はオランダ国王ウィレム2世WillemⅡの将軍宛の親書を携えていた。この親書はシーボルトの起草によるもので阿片戦争の実情を知らせ、鎖国を解くように勧告するものであった。

この図には長崎湊高鉾迠七月二日 本国船着之図とあり、7月2日の日付けがパレンバン号長崎港到着日と一致する。女神と男神の間は小舟が連ねて海上封鎖され、パレンバン号入津のためV字となって左右に小舟が分かれようとしている。筑前藩と肥前藩の兵が西泊と戸町の両御番所と湊周辺の台場(砲台)に配備されている。

▲オランダ軍艦パレンバン号長崎入港の図
(長崎大学附属図書館医学分館所蔵)